日々の思考

友達ってなんだろうから始まる人間関係のあれこれ

こんにちは、マイムです。
友人がSNSに懐かしいことを投稿したので「それ懐かしい」とコメントしたら「あんたが懐かしいわ」と返ってきました。
 
別の友人からは「今どこ?日本?」そんなメッセージをもらいました。
 
あの人は今
(一世を風靡した芸能人や有名人のその後に関する… NAVERまとめ)
 
状態。一世を風靡してもいないし有名人でもないですが。
 
日本にいないキャラ確立。
 
こんな生き方をしていると学生時代の友人とは疎遠になりがち。
 
就職、結婚、出産、マイホーム…
 
王道を行く友人たちと、謎めいた道を切り開いていく私に共通の話題がなくなるせいでしょう。そもそも海外にいがち。
 

今回は

「友達ってなんだろう」論を私の独断と偏見でお送りします。
 

  人間関係を振り返る

小学校を転校したことにより、共に育った幼馴染と言えるような親しい友人はいません。転校したことで前の学校の友人たちとは疎遠になってしまいました。
 
中学時代。「何でもできるマイムさん」だった3年間は振り返りたくない過去になっています。あの時代の私は虚像だから。あのマイムさんをマイムさんだと認識している人々がたくさんいて、それが心地よくないからでしょう。
 
高校時代もそんなに思い出したい過去ではありません。単発のいい思い出はありますが、高校時代という時代に対して思い入れがないです。クラス替えなしで3年間を共に過ごしたにも関わらず、誰ひとりとして個人的に連絡をとっている人はいません。進んだ道が違いすぎて…なのか、他に理由があるのかはわかりませんが、今はSNSで元クラスメイトの近況を知る程度です。
 
言ってしまえば大学時代の友人とも疎遠。連絡を取ろうと思えば取れるけれど、取るきっかけもないまま月日が流れています。「結婚したよ」「子供が生まれたよ」そんな報告はごくたまに入りますが、そのくらい。
 
もしかして友達いないの?
 
その質問、そろそろ出る頃。
 
薄情なの?
 
そうそう、それも。
 
どちらも答えはノー。(だと思っています。)
 

  友達の定義

そもそも友達ってどのくらいの間柄の人間のことを言うんでしょうか。
 
知人、友人、仲間、親友…
(※友達と友人は同じ意味だそうです。)
 
色々あります。
 
同級生、同志、同期、同僚…
 
こちらは同シリーズ。何らかのカテゴリーが「同じ」ときに括られる関係の呼称。人間関係は関係性や親密度に応じて名前が変わる。種類、めっちゃ多い。何なら同僚かつ友人である場合もあれば、同僚は同僚でしかない場合もある。もし関係に対する認識が自分と相手の間で一致しておらず一方通行だったりすると「友達だと思ってたのに…」とかいう事態も起こる。複雑。コミュ障にはつらい。
 
マイム
マイム
“一度会ったら友達で~毎日会ったら兄弟さ~♩”くらい単純ならいいのに。ミド!ファド!レッシー!ソラオ!を懐かしむフリして実はにこにこぷん世代。
 
正直、友達の定義はよくわからない。けれど私に関していえば、
 
その時々で周りにいる人間が流動的に入れ替わっている
 
と言えます。
 

  流動的な人間関係

人は環境の生き物。環境が変われば交わる人間も変わります。環境を変えまくってきたがゆえに関わる人間の入れ替わりが激しく、行く先々、世界中で出会いと別れを繰り返してきました。そんな中でやっぱり、
 
  • 同じような人生を歩んでいる人
  • 似たような境遇にいる人
  • 物理的に同じ場所にいる人
との距離は縮まりがち。
 
一方で、一度は親しくなっても、環境が変わり距離が離れてしまうと、月日の流れと共に関係も薄れていきがち。それが私の人生を客観的に観察することで見えた結果です。
 
マイム
マイム
何度経験しても人との別れには慣れません。毎回号泣。別れそのものに慣れて悲しみを感じなくなることはないけれど、別れの場数は踏んでいるのでまたあれが来る…きっと来る…っていう想像力は働きます。

勘違い禁物。離れたらさようなら、という薄情な考え方をしているわけでは決してないです。物理的に離れても心の距離が離れない友人もいます。(その関係を私は親友と呼んでいます。) 親友ほどの濃さや高頻度の連絡は取っていなくても、つかず離れずの関係を保っている友人だっています。国籍も性別も問いません。離れたからといって誰もかれもと疎遠になるわけではないということ。いろいろいるよ?ってことです。
 

  出会いは縁

誰かとのご縁。その縁を生かすも殺すも自分と相手次第。切れて?切って?しまうのか、繋げていくのかは選べます。出会った人全員と同じように繋がっていくのは不可能なので人間関係が淘汰されていくのは自然なこと。だからこそ、繋げていきたいご縁があったときはそれを大切に繋げていく努力をしたいと思っています。努力しないと続かない関係ならその程度という考え方もあるのでそれすらも選択可能ですが。
 
忘れた頃に連絡が来て再燃なんてことも時にはあります。幼少期を共に過ごした仲であれば、疎遠になってうん十年ぶりに会ってもあの頃と同じかもしれません。そういう全てをひっくるめて、友達っていろいろあるなぁってしみじみ思うわけです。
 
ひとつだけ声を大にして伝えたいのは、たとえ一時期すごく仲が良かった友人と疎遠になってしまっても、それは本当の友達ではなかったというわけではない
ということ。私の勝手な持論ですが。疎遠になってしまったとしても、当時の関係に偽りはなかった。ただ時間の流れと共にお互いが変わっていく中で交わらなくなった、共通点がなくなってしまった、ただそれだけのことだと思います。
 
諸行無常の響きあり。
 
マイム
マイム
愛も同じかな~トゥルーラブは終わらないのかな~終わったということは…って深みにはまったので「愛を信じる?」って友人に聞いたら「どの愛?アガペー?エロス?」って返ってきました。秀逸。そっか、愛はひとつじゃないって倫理の授業で石田先生言ってたわ。

  友人との再会

最近、友人2人と会いました。
 
友人S
どの時代からの友人なんでしょう。もはや不明。幼馴染というほど昔から一緒だったわけではないけれど、気づけば腐れ縁。タイプは全く逆。海外志向の私とは正反対で海外に行こうと思ったことはなく、国外には一生出るつもりがないらしい。堅実な職に就き保守的に生きてい(るように見え)ます。中学時代に「なんで生きなきゃいけないんだろう」と語り合いました。その頃から生きることに漠然とした疑問を抱き、生きづらさを感じていた部分は共通。根暗です。
 
友人Y
転校前の小学校が同じで存在は認識していました。高校に入って再会。悪い意味ではなく変わり者です。(悪口じゃないよ。) アート系。私とは違った方向で謎の経歴を積んでいます。今どこで何してるんだろう、とお互いがお互いの所在を認識していない空白の期間も多々(むしろそっちの方が長い)。今も実際のところどんなことをしてどんな人生を送っているのかを正確には把握していません。でもなんとなく思うところがあって、会う機会が何年かに一度訪れます。
 
この2人と会うといつも思うことがあります。語彙が多い。しょうもないことでも盛り上がります、小学生レベルの笑いもあります。でもところどころに一捻りした言葉遊びや知的なセンスの光る冗談を織り交ぜてくる友人たちです。非常に勉強になります。
 
悲壮感漂う単語しか言えない悲壮感しりとり
 
シラフの状態でしりとりで盛り上がる大人グループ、なかなかないと思います。
 
何が言いたいかって。彼らは
 
  • 同じような人生を歩んでいる人
  • 似たような境遇にいる人
  • 物理的に同じ場所にいる人
このどれにも当てはまりません。三者三様。生き様はバラバラ。ほとんど共通点はないんじゃないかとさえ思います。常に連絡を取り合っているわけでもないです。それでもどこかで繋がっていて時々会える。同じ時間を共有して楽しめる。そんな友人も友達として大切だということ。
 
マイム
マイム
帰り際に「友達でいてね」って言われました。え。そんな感じ?お願いしないと不安な感じ?ってなりながら「こちらこそ」と返しました。その返答で合っていたんでしょうか。

  まとめ

友達の定義について無駄に考えてみたけれど、
 
友達に定義はいらない
 
がまとめです。定義できない、が正しい。そんな結論に辿り着きました。
 
マイム
マイム
友達って何?とかそもそも別に考える必要がない。わかってます、自他ともに認める悪趣味です。
 
人生において、こんな風にとりとめもないことを考えて一人会議してきた時間を合計したら何年になるんでしょう。思考に耽るのは日常茶飯事。答えがないことや抽象的なことを考えて時間を潰す。これけっこう楽しいのでお勧めです。負のスパイラルにはまると地獄ですが。
 
友人Sと「なんで生きなきゃいけないんだろう」と語り合ったときに横にいて「なぜ生きるのかを考える。それを哲学という。」とかっこよくキめた熊谷先生にいつかどこかで再会したいと願って止みません。今どこで何してるんだろう。当時は爽やかな青年だった熊谷先生も今や立派なオジサンになってると思うと複雑ですが。
 
マイム
マイム
ありがとうございました。
 
 

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