冒険

宗教世界のぞき見体験記

こんにちは、マイムです。
 
日本からドイツに移動して10日(以上)経ちました。早寝、遅起きを繰り返していますがいつまで時差ボケのせいにしていいですか?ちなみに時差は7時間です。
 

今回は

予告通り、宗教関係のお話の続編。勧誘じゃないです、警戒しないでください。
 
舞台はオーストラリア。数年前にオーストラリアで、軽くイスラム教に触れ、がっつりキリスト教に触れました。
 
東南アジア出身のイスラム教徒たちと共同生活をすることになった話はこちら
オーストラリアの巨大トマトファームで異文化体験こんにちは、マイムです。 ブラジルから帰国して5ヶ月が経ちました。地元で農業に勤しんでいます。   角田農園   と出荷伝票に...

  信仰度の幅

彼らは特別 “敬虔な” イスラム教徒ではありませんでした。豚肉を食べない、は徹底していたけれどアルコールに関しては緩めで、1日5回のお祈りもしていませんでした。
 
イスラム教と聞くとニュースを騒がせがちな過激派を想像しますが、そんなイスラム教徒はごく一部であって、大多数は穏やかなイスラム教徒です。一言に○○教徒といってもその信仰度合いは様々。イスラム教の聖典はコーランですが、コーランをどう解釈して、何をどこまで自分に課しているかはそれぞれです。
 
数年前に訪れたバングラデシュもイスラム教徒主体の国でした。アルコール禁止。その事実がビールの価格に反映されていました。当時350mlの缶ビールが、同じ350mlのソフトドリンクの5倍くらいの値段だったと思います。アルコール飲料は大々的には販売しておらず、レストランなどでお願いすると奥の方からこっそり出して来ます。基本的に禁止ではあるけど、ないわけではない、そういうことです。
 
どんな宗教にも敬虔な教徒から、なんちゃって(と言ってしまっては怒られそうですが、わりと緩めの)信者がいます。そのグラデーションたるやミスチルのギフト。
 
 
マイム
マイム
「白と黒のそのあいだに無限の色が広がってる」の部分の歌詞のことを言ってますよ。

  不思議体験記

舞台はオーストラリアのシドニー郊外。
 

  出会い

ある日、公園のベンチでコーヒー片手にマフィンを食べていると、富士山柄のTシャツを着た外国人が目の前を颯爽と通り過ぎました。と思ったら、踵を返し戻って来て、
 
「ニホンジン、デスカ?」
 
と日本語で話しかけてきました。静岡県出身の私は富士山Tシャツを見た時点でニヤけていたのですが、日本語教師養成講座受講中だったこともあり、日本語を話す外国人に親近感を持ちました。笑顔で挨拶、軽いやりとりをして別れました。
 
数日後。町の図書館で宿題をしていたところ、背後から、
 
「スミマセン、ニホンジンデスカ。」
 
と声を掛けられました。振り返ると、
 
「カンジ、オシエテホシイデス・・・」
 
ノートを広げて立っていたその人は、そう、公園で会ったあの人。漢字を教えつつ、再び日本語で会話をしました。
 
映画やドラマの場合
甘い展開を期待。数日以内に偶然二度も会うなんて運命!ロマンチックも甚だしすぎる!
 
でもそれは現実。それに、私はちょっとした違和感を感じていたのでした。
 
その① 彼の風貌
もっさり。ドレッドヘアー、無精髭、服装は地味目。
 
 
その② 彼の物腰
ソフトな人当たり。溢れ出る余裕。
 
その③ 彼の放つオーラ
透明感のあるふわふわ
 
 
完全に語彙不足です。申し訳ない。ではちょっと今から私の言うとおりにしてもらっていいですか?
 
 
 
 
…静かに目を閉じてください…
 
 
 
 
…「イエスキリスト」を思い浮かべてください…
 
 
 
はい。今そこに見えた人が彼でだいたい合ってます。
 
私が彼に感じた違和感をまとめるとこうなります。
 
 
この世の人ではないオーラを若干纏い俗世間とかけ離れた世界に通じているかのような謎の空気を醸し出してる人
 
 
ドレッドヘアに少々チャラついた服装であったなら迷わずレゲエ界の人だと判断したでしょう。上記イメージ写真の通り。が、彼の服装はお世辞にもおしゃれ(に気を使っている)とは言い難く、とても質素なものでした。
 

  会う約束

彼は私に言いました、
 
「一度、僕の住む家に来ませんか。同居人たちにも会ってほしいです。」
 
(家?同居人?どういうこと?とりあえずデートではないな。)
 
怪しさ満点でしたが、彼の放つ謎の「神感(かみかん)」から、(性的な)身の危険は感じませんでした。違う方の不安が。怪しい世界に連れていかれるのでは…。要はこの時点で宗教的な何かを敏感に感じ取っていたということです。
 
怪しい、怖い。でもその人自身はめちゃくちゃいい人。断る理由はとりあえずない。それに今すぐついて来いとは言ってない。強引でもない。来たいときに連絡してって言ってる。なぜか「金曜日」を指定してるけど。決定権は私にある。時間もある、考えよう…
 
一旦持ち帰り、友人を誘いました。そして、とある金曜日にお宅訪問を決行。日本語が話せる外国人であることをダシに日本語教師養成講座の同期を誘った私の頭のキレ具合やいかに。
 

  訪問

一軒家でした。ごく普通の。案内されて足を踏み入れると、薄暗くて、ひんやりしていて、ろうそくの炎が…
 
ビンゴ。ごく普通ではまるでない!早くも前言撤回。
 
精神世界と通じているのは一目瞭然でした。同居人は15-20人ほどいて、全員が神対応。神対応というより、神が対応。厳かな空気ではあったけれど、宗教について語るでもなく、勧誘するでもなく、ただただ夕食を一緒に食べ、なんてことはない雑談をしてその日はおいとま。
 

  交流

その日を境に交流開始。引き続き金曜日にお宅を訪ねたり、一緒に近所の公園で早朝エクササイズをしたり、休日に散歩したり、ビーチに行ったり。シドニー湾でクルーズ船を運転している人がいたので乗せてもらったり…
 
仲良しこよし写真をいくつかご紹介。
 
公園で朝のエクササイズ
晴れた日のお散歩
ビーチで日光浴
 
出会いのきっかけは日本語を勉強していた彼でしたが、一度訪問した後は彼との個人的な付き合いではなくなりました。サークルのような。時間がある人、都合が合う人が集って遊ぶスタイル。別段危ないこともなく、勧誘されることもなく、ただただ友情を育みました。
 
マイム
マイム
彼が日本語を勉強していたのは単なる趣味だったようです。独学にしてはアッパレな実力でした。会話問題なし、漢字も書きこなしていました。拍手。
 

  解せぬ要素

彼らと友達になったのはいいとして、謎の要素がいくつかありました。
 
同居人
同居している15-20人はいわば家族。大人から子供まで、老若男女が混在でした。働いている人もいたし、学校に通っている人もいたし、何もしていない人もいました。
 
金曜日
招かれるのは金曜日。金曜日はスペシャルな日だという。金曜の日没から土曜の日没まではあらゆるテクノロジーを排除して家族みんなで団欒しながら過ごすのが決まり。ノーテクノロジーに備えて金曜の日没までにその日の夕食、次の日の食事まで作り置きしてありました。
 
アナログ
金曜の日没から土曜の日没までは全テクノロジーが厳禁。では普段はというと。さすがに現代社会に生きていたらすべてを排除することはできないのでしょう、テレビ、デスクトップのパソコン、電気、調理器具など基本的なものはありました。携帯電話は1人1台ではなく家族で2台。e-mailアドレスは誰も持っていませんでした。個人的には連絡とれず。連絡は電話か電話回線で利用可能なSMS。または手紙。
 
家計
共同財布の概念。働いている人と働いていない人がいるけれど、働いた人の給料は全て共同財布に入ります。お父さんのお給料で家族全員が養われているのとまったく同じ。誰も文句は言いません。その共同財布から全てが支払われるため、個人が自由に使えるお金は存在せず。私用でお金を使いたい時は家族会議で承認を得ます。
 
言葉
挨拶はアラム語。筆記もアラム語。
 
 
全員イエスキリストみたいな容姿。全員穏やかで優しくていい人。いくつもの謎ルール。何のことはない、キリスト教の一派でした。信仰を同じくする者たちが共同生活を営み、共通ルールに乗っとって生きているコミュニティに縁あって足を踏み入れた日本人、私。
 

  解説

それではここで、解せぬ要素の解説を。
 
上記に挙げたもの全て、神の御意志だそうです。彼ら曰く、聖書に書いてある通りに生きるとそうなるらしいです。
 
金曜の日没から土曜の日没は彼らの宗派での安息日
 
安息日
アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)において、何もしてはならない日と定められた日    Wikipediaより

安息日は安息する日なので、敬虔なユダヤ教徒はスイッチを押すこと(=労働)すらも許されていないと聞いたことがあります。彼らの宗派はユダヤ教寄りだったのかもしれません。電気、ガス、テクノロジーを禁止するのもそこから来ているものと思われます。
 
公用語はアラム語
 
イエスキリストが使った言語はヘブライ語ではなく、おもにアラム語であったというのが今日の定説になっている…    Wikipediaより

ヘブライ語じゃないんだ。アラム語、何その言語?っていう。生まれて初めて聞きました。挨拶すら忘れてしまいましたが、男性と女性で挨拶が違います。さらに挨拶時、同性同士は握手のような触れ合いがあったけれど、異性との接触は不可でした。
 
全員揃ってイエスキリストみたいな見た目をしていたのも、聖書に髪を切るべきではないとかそういう類のことが書かれているという説明をされました。本当か嘘かはわかりません。むしろ嘘だと思うんですが(怒られる)。そうとは書かれていないはずだけど、聖書にある抽象的な表現、神の言葉を彼らはそう解釈したんだと思います。
 
彼らのスタンスは終始来る者拒まず去る者追わずでした。クリスチャンになれ!という圧力は一切かけてこなかったという意味で。
 
彼らの脳みそにはバイブル(聖書)が刻まれていました。原文が全部そのまま入っているといっても過言ではない、というより、それを目指して日々聖書の勉強。どんな会話の中でもバイブルの一説を引用し、質問にはバイブルの中の言葉で答え、相談すればバイブルから答えを探して提示。つまり誰と会話をしようが、「神」と会話をしているのと同じ。個性ないんかい!
 
神のすばらしさを説き、助け合い精神の元に成り立っているコミュニティライフの合理性を主張。来客に聖書を手渡し、どこどこの章の何番のフレーズを見てごらん、ほら、そこにこう書いてあるでしょう?それはこれこれこういう意味で、神が人類・・・略・・・
 
「クリスチャンになれ」
 
とは一度も言われなかったので、こちらも拒絶するには至りませんでした。ただただ神のすばらしさを説き続ける不思議な友人たち、という位置付け。
 
手紙もよくもらいました。日本にまで、ブラジルにまで郵送してくれたこともあります。内容は近況報告と神のフレーズ。全力で神推し。文通にしては神々しすぎやしないかい?
 
と、いろいろ突っ込みどころは満載でしたが、不思議かつ貴重な経験でした。
 

  布教活動

個人的な見解ですが、私自身が布教活動に関して誤解していた部分があるので記しておきます。
 
布教活動は、やみくもに信者を増やすためのもの、という認識が私にはありました。家を回ってビラを配ったり、道端で聖書を手渡したり、教会に呼んであれこれ説いたり。洗脳やマインドコントロールを目的とした活動。超絶ネガティブなイメージ。
 
一般的に無宗教の人は洗脳されたくないという思いがあるので宗教に拒絶反応を示しがちです。勧誘は迷惑だし、宗教家をいかがわしい人だと認識しています。過去の私を含めて。
 
でも実際は、彼らに一切の悪気はないです。少なくともピュアな信者たちは。彼らは、
 
 
神のすばらしさを知らずに苦しみながら生きている人たちに、苦しみから解放される方法(=神を信じる道)を示してあげている
 
 
に過ぎません。好意でやってます。人助けしている気満々です。楽に生きる道を提示してあげてる俺らめっちゃいい人、っていう自己陶酔を通り越して、こんなにいい方法を知らないなんてかわいそうすぎる!早くみんなに教えてあげないと!っていう使命感に駆られています。彼らは全員自分が神の子だと信じています。神の御意志を広める(伝道する)使命を担っているわけです。
 
マイム
マイム
怪しげなビラ「信じれば救われる…」的なやつを見る目も変わ…んないか。怪しさは今も100%だけど真実は100%が好意なのは認めてあげます。
 
つまり、
 
勧誘しているわけじゃなく布教している
 
んです。別に誘ってない、教えてあげてるだけ。勧誘と布教、言葉の意味の違いさえ深く考えたことはなかったけれど、妙にしっくり。
 
中にはそれを逆手にとって悪意を持って布教している団体も一定数あるのも事実。クリーンな団体なのか闇のある団体なのかの見極めは非常に難しいところですが。私自身は彼らとの交流を通じて少なくとも宗教家に対する敵対心のようなものはなくなりました。
 
 

あとがき

神のすばらしさを懇々と説かれ、聖書にはいったい何が書かれているんだろうと興味を持ったのは事実です。キリスト教徒になるならないはさておき、純粋に聖書の中身を知ってみたいという好奇心が頭をもたげ、新約聖書を購入。500円。(新約のほうが読みやすいらしいです。旧約から入ると挫折しやすいとか…)
 
新約であっても秒で挫折したけどな!マラウイにいた頃はバイブルアプリを使って英語でトライもしました。日本語で全然わからないのに英語でわかるはずがない。早々に飽きる、挫折。の繰り返しです。
 
私が交流を持った教団の彼らも、全員が生まれつきその宗派を信仰していたわけではなく、それぞれにきっかけがあって改宗したようです。イスラム教から改宗した人も、キリスト教の別の宗派から改宗した人もいました。何をもって改宗するに至るのか、非常に興味深いポイントです。
 
中には、もともとキリスト教徒ではあったけれど熱心に聖書を読むことなく成長し、大学でサイエンス系の学部を選考した後に何らかのきっかけで聖書を読み、
 
「創造論(神がこの世を想像したという論)」を肯定するあまり「進化論」を否定せざるを得なくなった
 
という理由で、サイエンスを受け入れられなくなり退学したという強者がいました。信仰の力のエネルギーの凄まじさよ。そりゃ争いも起こるわ…
 
 
 
以上全てを経ても、私自身の信仰心は現在も日本人のそれのままです。唯一絶対の神の存在を受け入れてはいないけれど、否定もしません。
 
海外を旅すると大聖堂(教会)が観光名所になっている町が多々あります。立派な建築、美しいステンドグラス。感心はします。でも、心が落ち着くとか、浄化されるとか、そういうスピリチュアルな感覚はありません。そういった霊感のようなものはやっぱりお寺や神社で感じます。精神が日本人なんだなと強く思っている所存です。
 
何かを信じていても信じていなくても人類はきっと仲良く共存できるはず。祈って終わります。
 

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